20代最後の君へ

‪あと15分足らずで30歳を迎えるね。‬

‪もしかしたら思い描いていた理想の30歳の自分ではないかもしれない。‬

‪でも、君は真っ当に、一生懸命に20代を戦い抜いてくれた。‬

‪それはまぎれもない事実であることを忘れないでほしい。‬


‪人と比べて落ち込むのはやめにしよう。‬

君は君の人生を歩めばいい。

だからといって楽な道を選べばいいという訳ではない。

自分がやりたいと思うことを実際に行動に移し、体現してほしい。


君が尊敬する松陰先生の年齢を超えることに焦っているかい。

自らを律し、日本国のために、公のために、どんな苦労も惜しまず、自分の掲げる理想に向かって、常に真正面からぶつかり、逃げも隠れもせず、行動に移し、未来を担う若者を育て、彼らが時代を変革するきっかけを与えた

自分と真逆の立場にある松陰先生に半歩も近づけなくて落胆しているんだろう。


馬鹿野郎。

偉人と比べる暇があったら、もっと自分を磨け。


人はなぜ学ぶのか。

知識を得るためでも、職を得るためでも、出世のためでもない。

人に物を教えるためでも、人から尊敬されるためでもない。

お役につくためでも、与えられた役割を果たすためでもない。

かりそめの安泰に満足し、身の程をわきまえ、この無知で、世間知らずで、何の役にも立たぬ己のまま生きるなど御免です。

なぜ学ぶのか。

この世の中のために己が為すべきことを知るために学ぶのです。


自信を持って前に突き進め。

期待してるぞ、30代の俺。


マラソン

数年前ではありますが、筑後川ラソン大会に挑んだ記録をここに紹介させて頂きます。

 

前日の台風の影響で、大会自体が危ぶまれたが、神が試練を与えてくれた。

私自身、8:2で中止になると踏んでいたが、そうは問屋が卸さらなかった。

大会3日前に正式に開催が発表された瞬間、『まじか、嘘だ、走りたくない』率直にそう感じた。この時点で精神的なライフポイント80。そして、会社に行くと、同僚からとどめの一言「無事開催されるね!!」

この時点で精神的ライフポイント70、

 

『見張りがいる、もう逃げられねぇ』

 

ここまで、自分で目標を掲げときながらなんと無様な様相。しかし、前日の土曜日。男・あききる、重い腰を上げ、台風に逆らないながらスポーツ店へと足を運び、ショートパンツにランニングタイツ、シューズに五本指の靴下と下半身を揃えた。

 

そしてついに当日の朝を迎えた。天気は快晴、気温は高め。7時間睡眠で体調は頗る良い、あとはやるだけ。上半身はお古ではあるが機能性シャツにナイロンパーカー、下半身おNEWで身を纏い、いざ出陣。

会場は老若男女大勢で賑わい、結構なスピードでランニングし準備している人や友達同士で、「頑張ろうな、俺が脱落してもお前は進めよ!!」と当たり前の励ましをしている人々、孤独ながら、心と体に『お前ら、踏ん張ってくれ』と切実に願う自分がいた。

そうこうしているうちに、スタート時間の10時が迫り、そそくさと荷物を預け、後から振り返ると何であんな自殺行為をしたのか、念のためにとポケットにカロリーメイトを忍ばせてスタートラインに並んだ。

 

「パァンッ」て恐らく鳴ったのだろう。少しずつのろのろと前が動き出したので、私も歩みを進めた。精神的ライフポイント70、体力的ライフポイント100でスタートを切った。最初は余裕しゃくしゃく、「頑張れー、負けんなー」という周りの声援、そしてカメラに向かって手を掲げヒーローを気取ってみたりした。最初は早く前に進みたくて仕方がなかったが、その衝動を抑え、一定のペースを保ち10キロが過ぎた。この日の最高気温27℃、容赦ない太陽の日差しと台風が過ぎ去った後の暑さが体力をみるみるうちに奪っていく。この時点で精神ライフ60、体力ライフ70。約3キロおきにある給水所での給水ペースがぐんぐん上昇していく。20キロ手前、ついに足が止まった。

 

『やばい、鬼きつい』

 

その感情に呼応するかのように、大量の汗が噴出し、顔中を覆いつくした。堪らず、汗を拭おうとポケットのハンカチを取ろうとするが、必ず最初にガサッとカロリーメイトにあたる。

 

 『くそッ、とんだ足かせだ、邪魔でしかない』

 

やっとハーフ地点。あれから歩き続けていたわけだが、心の中では折り返したら頃合いを見計らい挽回しようと誓うも、無駄な誓い。この時点で精神、体力ライフ共に30。

ここで助け舟が追い風となって到来。ZARDの〈負けないで〉が脳内に流れてきた。予想よりも早く、1キロも進まない内に曲が2週し途切れた。かの名曲がかかるには時期尚早、おばあちゃん家の夕食ぐらい早過ぎた。

30キロを過ぎた頃には、両足じんじん、体力ライフは10、限界に近づきすぎて脳内に心の声も思い浮かばない状態だった。額にはざらざらと塩が生成され、どこにそんな体力があるのか、明らかにもうあと1、2歩で倒れるんじゃないかという悶絶した顔のおじいちゃん達に次々と先を越された。想像してみて下さい。もう限界、無理と完全にダウン寸前で歩いてしかいない時、完全に自分より苦しい顔でよぼよぼながらも走り去っていくおじいちゃん達の勇敢な姿をまざまざと見せつけられた時のことを。情けなすぎる、でも足はもう使い物にならない。

 

さぁ、刻一刻と最終関門34キロ地点の制限時間が迫っていた。

 

 「あと、5分で―す!!あと5分で関門閉まります!!頑張って下さい!!」

 

遠くから微かに聞こえた。関門まで恐らく残り1キロは切っていると感じ、所々走ったりするが続けれるわけもなく、すぐ立ち止まる。伊能忠敬も流石に歩みを止めるレベル。

 

 『もう無理。もうー無理。34キロ地点で止めよう。練習もろくにせず、よく頑張った』

 

そう自分に言い聞かせ完全にスイッチが切れ、精神・体力ライフ両方が0になるカウントダウンに入った時だった。

 

「残り1分です!!まだ間に合います!!頑張って下さい」

 

顔を上げると、学生や町のボランティアの人々が一生懸命声を上げて呼びかけていた。からからの砂漠に一粒の恵みの雫が落ちた瞬間だった。

 

『意外と近い、間に合うかもしれない』

 

残りのライフは確かにほぼ0だった。ほぼ動かなくなった心電図が声援という電気ショックで微かに波を打ち始めた。最後の力を振り絞る。全力で足を振って、手を振って、ぐん、ぐん、ぐん。

 

気が付くと、最終関門で両腿に両手を付き、ぜえぜえ息を吐いていた。

 

 「大丈夫です。間に合いました。ぎりセーフです」

 

残り2秒で関門にたどり着き、もちろん最終関門を突破した最後の一人だった。まだゴールもしていないのに拍手喝采、みんなとハイタッチをした。そして残り8キロをどうにか足をひきずりながら、最後は両手をしっかり挙げゴールのテープを切った。制限時間の6時間30分を超える6時間46分でのゴールだったが、最後まで待って、見守ってくれた地域のボランティアの方々。ゴールした瞬間は、清々しく、そして何より声援を送り続けてくれた周りの方々に本当に感謝の気持ちで胸がいっぱいで涙腺が緩んだ。

 

これが、マラソン大会の全記録となります。最後に、私が伝えたかったこと、それは限界は自分の想定よりも先にあるということです。大袈裟にはなりますが、34キロ地点で間違いなく私は諦めており、もしあの一声が無かったら完全にあそこで立ち止まりレースは終了していました。しかし、火事場の馬鹿力の如く、ふとしたきっかけで思いもがけない力がみなぎり爆発することがあると思います。限界には本当の限界と、自分で勝手に決めた限界が存在すると思います。そして、できると思い込むと意外と自分で決めた限界を突破できてしまう。

偉そうに言っておきながら、日々の生活で実践できていないので、胸が痛いです。

長文、最後までお読み頂きましてありがとうございました。

将棋ウォーズ

深すぎる。

これは虜にならざるを得ない。

その一手への思い、及ぼす影響は計り知れない。

ほんの9×9の盤上で争われる無言の戦い。

しかし、そこには熾烈な長時間に渡る静かな駆け引きがある。

その緊迫感たるや。

まさに赤と青だけではない、びっしり埋め尽くされている様々な色のコードの中から一本一本丁寧に切断する爆弾処理の如く。

 

~~~~~ 将棋 ~~~~~

 

それは一度はまるとなかなか抜け出せなくなる、薬物的競技である。

使用する駒は歩兵、香車、桂馬、銀将金将、角行、飛車、玉将(王将)の8種類。

その20枚×2の駒を2人が盤上で交互に動かし、相手の玉将を捕獲したほうが勝つ。

歴史は深く、最古のもので平安時代に使用されていた駒が発掘されており、16世紀には今のルールとなっている。

 

当時藤井聡太7段が17歳にして、渡辺明棋聖を破り、史上最年少で棋聖のタイトルを奪取した時は震えが止まらなかった。

 

将棋オンライン対戦アプリ「将棋ウォーズ」に四六時中はまっている男がいた。


何を隠そうこの私、あききるである。

 

将棋ウォーズでの戦績は128勝147敗。得意戦法は嬉野流。持ち時間最大10分での勝負。

まだまだ初心者な故、せいぜい3~4手先しか読めず、目に見えない猛者達にことごとく追い詰められ、気づけば自陣の王が味方も蹴散らされ、丸裸で360度銃口を向けられている状態となる。

 

かの羽生名人は読みの手数について、直線で30~40手、枝葉に分かれて300~400手と答えている。そして1回の対局で体重が3~4キロ減ることから、思考に費やすエネルギーは半端ではない。

 

そんな能力も体力も身についていないあききる新人は必殺技を繰り出す。

 

そう「棋神」だ。

困った時にそいつを発動すれば、アプリ内の棋神という名のAIが『願いを叶えてやろう』『見るがいい。神の一手』などと渋い声で降臨し、瞬時に好手を5手先まで勝手に指してくれる。

そして、『困ったらまた呼ぶがいい』『あとは頑張れよ』と言って颯爽と帰っていく。

 

これに味をしめたあききる凡人は『そういえば困った時は呼んでよって言ってたな~』と棋神を呼び出し、呼び出し続け、いつの間にか終始両手を組み、1分に一回、右の人差し指が棋神ボタンに触れているだけの状態となっている。

フィールドで試合をしていたにもかかわらず、調子が悪く何度もベンチに下げられ、しまいには試合の序盤で観客席に移動し『頑張れー』と応援しているようなものだ。

 

試合に勝利し、ご満悦なあききる見物人に一通のメールが届いた。

 

Appleからの領収書です。

 

棋神×13=1,220円

棋神解析券×26=1,220円

棋神×27=2,440円

合計4,880円

 

 

『Oh my God!』

 

 

そして棋神を使い果たし、対局に負け続け、是が非でも一勝をもぎ取りたいあききる落人はあらぬ手法を使用した。

持ち時間10分のうち、最初から5分間一手も指さず、対局する気はないと見せかけて、相手が諦めて退出するのを待つ。

こうしてついにあききる最低人となったのであった。

 

それはさておき、将棋は社会の縮図と言ってよいのかもしれない。

玉将を守る駒、相手の玉将を攻める駒に分かれ、それぞれの駒がそれぞれの役割を最大限に出し切った方が勝利する。

まさに会社を守るため、繁栄させるため、しいては会社に関わる全ての人が幸せになるため、当社で言えば営業、管理、開発、建設等それぞれに分かれ、一丸となり業務を遂行する様に似ている。

 

プロ棋士は一手指すのに、かなりの時間をかける。一局の対局での持ち時間がおおよそ4時間~9時間の中で、これまで一手指すのに要した最大の時間は5時間24分だ。これは一局ではなく一手にである。

そしてプロ棋士の解説者もその時は分からないほど、何十手先まで読めるAIも好手と判断できないほど、凄まじい一手も存在する。対局が進むにつれて、あの一手はここに繋がったと、感動すら覚える一手もある。

 

このほんの9×9の盤上で、何時間も次の一手を考えに考え抜き、ときには壮絶な展開が待ち受け、壮大なドラマがそこに誕生する。

 

仕事は、人生は、その何十倍も何百倍もの可能性を秘めている。

一定の会社の、社会のルールは存在するが、将棋の盤の何倍の面積で、将棋の駒の何倍の動き方ができるのか。

人間が動く一歩はそれだけ価値がある一歩なのだ。

熟考した一歩が、良いか、悪いかなどその時に分かる人などいるわけがない。

物事を成功に導いた時、周りから評価される。

はたまた、人生の終盤にさしかかり、あの時の行動は正しかったと自分自身が感じるのかもしれない。

 

次の一手、皆さんは何を指しますか。

耳かき

さて、みなさん突然ですが耳かきはご自分でされますか。

私はというと、恥ずかしながら最近は妻にしてもらっています。

っと恥ずかしいのがクッキーモンスターの顔が付いた耳かきを使用しています。

これを聞いて、「新婚さんでラブラブでいいですね」とか「うわー甘えてるやん、キモ」

とか思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、皆さんちょっと待って下さい。
目とか鼻はゴミが入っても見えるからいいですよ。耳は自分では見えないんですよ。
自分で闇雲に耳の中を探って傷つける可能性があるなら、ましてや自分のパートナーがそこにいるのなら

お願いして耳の中を掃除してもらう、これが合理的な判断ではないでしょうか。

では、耳かきの一連の流れを説明させていただきます。
まずは明るい場所で相手の膝の上に右耳を乗せ、相手とは垂直に寝転がります(左耳から診察してもらいます)。

次にティッシュを一枚、自分の視線の延長線上(ここがポイント)にセットします。あとはティッシュに積み重なっていくゴミを見つめながら満足感を満たすだけです。
その中で、たまに耳かきが奥に入りすぎたり、ゴミが取れないのか何度もコスコスされ痛い思いをした後、

ティッシュに打ち上げられたゴミがはるかに小物だった場合は無言でカッと目を見開き相手に無言の圧力を与えます。


※ご飯中の方、不快に思われた方、汚い話をつらつらとしてしまい大変申し訳ございませんでした。

 

ふとある時、気持ちよく耳かきをされている途中で重大なことが頭に思い浮かび、

一瞬ではありますが不安な気持ちが襲いかかってきました。

「もし今、耳かきの棒を奥にぶっ刺されたらひとたまりもない。鼓膜も突き破って耳が聞こえなくなるかもしれない。」
「そして何より、耳かきは突然に攻撃されることしかありえない。

「つまりこうだ。
テレビで包丁や銃を突きつけられ『動くな。動いたらお前を刺す(撃つ)』というシーンがよくあるが、

その状況からは素人ではほとんど打開できないと分かっているからこそ、逃げないための脅しが成立する。

たとえ一瞬逃げられたとしても、追いかけられ急所をやられる可能性が大いにあるからだ。

しかし、耳かきの最中に『動くな。動いたらこのまま耳かきぶっ刺すぞ』と脅されても最悪隙をみて一瞬で引っこ抜けば、再度小さい耳の穴に入れられる確率は極めて低い。

だからといって耳かきで別の体の部位を攻撃されてもかすり傷で、急所は耳の穴、あとせいぜい目の中しかない。」



------- 要するに、本気で耳かきで攻撃しようと思うときは事前予告はしない!!!-------


そう一瞬で結論に至った瞬間少し震えました。







「妻はいつでも俺を殺れる」

 







しかし、その不安は一瞬で消え去りました。

妻とは付き合って10年が経ちます。この10年で幾度の困難な壁を2人で打ち破ってきたことでしょうか。

妻がそんな事をするはずがありません。そう、妻を無意識に信頼していたのです。

赤の他人に耳掃除をしてもらうのは結構リスクがあり怖いのではないでしょうか。

長年付き添った妻だからこそ、信頼し耳を預けていたのです。



そう考えると、社会において、仕事は信頼されているからこそ任されるのだと思います。

わざわざ一つ一つの仕事を、お前に任せるから頼んだ、信頼してるぞなんて大それたことはいちいち言わないでしょう。

どんなに小さな仕事でも、もし社員の1人が先方に失礼な態度で接し不快な印象を与えてしまえば、会社自体が悪いイメージを抱かれてしまいます。

はたまた不注意で個人情報を漏洩してしまえば、会社の信用は一気に失墜します。
そうならないために、一つ一つの仕事を丁寧にこなさないといけません。
 

そして、

「耳の痛いことを言われてもしっかりと受け止めて、どんな些細な事にも耳を傾けていこう」


と、私は膝上の右耳を左耳に入れ替えた。

ワンチャン

いきなりですが、

皆さん若者言葉使ってますか。

 

いつも私の隣で、ワンチャン、ワンチャン 吠えている人がいるので本当にうんざりしてます。

 

せめて、ワンって吠えてくれよ。

 

 

※ワンチャンとは?

ひょっとしたら、可能性があるかもしれない時に使用する言葉。

 

私が思う使用例

 ・ワンチャン、自販機下落ちてますよ(後輩)

 ・ワンチャン、そのお金が復興支援に繋がるよ(私)

 

 

 

私的には、結構下ネタのニュアンスで使用されるイメージがあったので隣人を冷ややかな目で見ていました。

 

先日、違う人の声でワンチャンという声が聞こえました。 

 

 

まぎれもなく私の声でした。

 

 

さんざん嫌っていたワンチャンを使用した落とし前をどうつけるか。どう誤魔化すか。

絶望の淵に立たされ、とっさに次の2つの案が思い浮かびました。

 

 

1.ワンチャンか猫やったら、やっぱり結局ワンチャンなんよね。

2.いや、ツーチャン行けるかもね。

 

 

2を選びました。なんとかボケて乗り切ったと思って、念のため後からツーチャンを調べたところ、

ワンチャンを応用させた言葉で2回チャンスがあるという意味の若者言葉でした。

ただ、若者言葉使いこなしてる人と思われ、さらに傷口を広げてしまっただけでした。

これはもう、ぴえん超えてぱおん状態ですね。

 

 

しかし、右斜め前の主任がある時、「がびーん」と言っていたのを聞き、すぐにショックから立ち直り、

そしてさらに数ヶ月ぶりに実家の母の顔を思い浮かべることができました。ありがとうございました。

 

 

言葉はいつの時代も必要なものであり、色んな変化を遂げ、今に至ります。

時代、時代に合った言葉、言い方が生み出され、その時代を創り上げ、彩っているんですよね。

そう考えると、ワンチャンはもちろん、がびーんもドロンしますもその時代の大多数の人々に受け入れられ、

最先端の言葉であったことは事実であり、当然の成り行きだと感じます。

たまに100年前、いやさらに昔200年、300年前の先人達とどこまで話しが通じるのか、

一度話してみたいとふと思うことがあります。

あの有名な南方先生も江戸の終わりにタイムスリップして普通に暮らせていたので約150年前まではセーフでしょうか。

 

 

話しが少し脱線しましたが、言葉は全ての仕事において一番基礎的かつ最も重要なツールと捉えていいでしょう。

いくら流行しているとはいえ、ビジネスの場においてワンチャンなどと場に相応しくない言葉を使い続ければ、

周りから奇異な目で見られ、いくら仕事ができてもノーチャンな人生を歩むことになりかねません。

はたまたその場その場に適した言葉選び、言葉遣いができればより多くの人に好感を持たれ、

新たな仕事が舞い込む機会を得ることができ、フルチャンな人生を送ることができるでしょう。